Things I Didn't Know

BTSと韓国ミュージカルが好きです。

【観劇レポ】韓国ミュージカル「ベンハー」2幕


 

■ 歓楽街

二幕は、ピラトとメッセラがショーを楽しんでいるシーンから。男性アンサンブル16,7人くらい?によるベリーダンスシーン!めっっっちゃカッコイイです。そもそもこのシーンは開幕の数週間前になって急に追加されたシーンだそう。冒頭の民族音楽色の強い部分と、会話シーンのあとの少し雰囲気が変わって現代的なアレンジ部分。どちらも振り付けがセクシーでかっこいいし、衣装も美しいし、目が幸せ。ここなんとか映像に残してくれないかなー。

 

ピラトとメッセラは、ユダヤ人がナザレの男が救世主なのではないかと期待していることを話題にし、嘲笑しています。そして、ちょっと曖昧なのですがメッセラがユダヤ人に潜入する計画をピラトに話してる…?ジーザスを生かすも殺すもユダヤ人次第と言いつつ、ユダヤ人のデモに潜んでジーザスの迫害も先導しようとしたのかなー。ここらへんはまだよくわかりません。

 

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ピラトが麗しい男たちをはべらせているのを見ると、元々は階級の低い兵士であるメッセラを拾ったのにもそういう背景があったのでは…という気もしてきますね。渇いた表情でピラトの傍に座っているメッセラ。ピラトへの恩義も多少はあるのかもしれませんが、それ以上に野心のために付き従っているんじゃないかという印象を受けました。

 

■ M12. 그날의 우리/あの日の私たち (ユダ、ミリアム、ティルザ、エスター
廃墟のようになった我が家へ戻って来たユダ。母と妹を思い、幸せだった日々を一人回想します。そこへ、 病気の身体を引きずりながらミリアムとティルザがやってきます。2人は「ハンセン病患者の谷」に向かう途中に一目我が家を見ようと立ち寄ったのでした。ユダの姿を見て隠れる2人。エスターに見つかりますが、「私たちが生きていることをユダに知られたくない。綺麗だった姿のまま覚えていて欲しい。」と必死に懇願し、エスターは承諾します。

食卓を片付けようとしたエスターに「何も手をつけないで。そのままにしておいてくれ」と頼むユダが切ない。

 

【動画】あの日の私たち/カイ、アン・シハ、ソ・ジヨン、クァク・ナユン(ショーケースより)

 

 

ユダヤ人のデモ
エルサレムでは、ピラトの圧政に対するデモが行われています。密かにデモに近付くユダとティトたち。デモの中には、ユダヤ人に変装したメッセラたちが潜んでいるとの報告が。ユダたちはそれに対抗してローマ軍の鎧を身に着け、ローマ軍として彼らを捉えようと言う作戦を取ります。

 

激しい戦闘になるユダヤ人とローマ軍。ユダとメッセラは1対1の切り合いになり、ユダがメッセラの首を捉えた瞬間、「お前の家族が生きている」とメッセラが叫びます。2人は死んだはずだというユダに、自分がそう報告したからだとメッセラ。メッセラは2人の居場所を伝えるための条件として、戦車競争に出て自分に勝つことを要求してきます。

 

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そこへ本物のローマ軍がやってきて、ユダヤ人達は逃走。ユダヤの服装を着たメッセラは、本物のローマ軍に誤って捕らえられそうになり、「お前たちの指揮官メッセラだ!」とユダヤ服を脱ぎ捨てます。

 

メッセラがユダヤ人に、ユダがローマ人に変装するという設定は物語上そこまで大きな意味があるものではない気がします。この部分は、2人を対比させるための演出なのではないでしょうか。メッセラはローマ人として生まれ、ユダヤ人の養子になり、自らローマ人であることを選んだ人物。それに対しユダは、ユダヤ人として生まれ、クイントスというローマ人の養子になったうえで、再びユダヤ人に戻ることを選ぶという真逆の道を辿った人物です。メッセラがハー家の養子だったという設定は59年版映画にはない設定で(2016年版映画では養子という設定になっていますが、ミュージカル版の製作が2014年に始まっていることを考えると影響があったのかどうかは微妙なところ)敢えて"養子"としたのは2人を鏡映しの存在として設定するためだったのではないかと思っています。そしてそれが印象づけられるのが、2人がお互いの国の扮装で相見えるこのシーン。

 

 

■ M13. 나 메셀라 / 私はメッセラ(メッセラ)

メッセラはユダヤ服を脱ぎ捨て、上半身に何も纏わないまま《私はメッセラ》に入ります。自分が何者でもなかった頃、両親を亡くしユダヤで養子となったことを回想するメッセラ。このあたりも、《運命》でローマ服を脱ぎ、ユダヤ服に身を包んで復讐を誓ったユダと重なるところです。やっぱりユダヤ人への変装という設定はこのためあったんじゃないかと思う完璧な導入…!

 

9月に観たウヒョクメッセラは服を脱ぎ捨てたところで爪で自らの胸を引き裂いていて、胸には実際に赤い爪痕が走っていました。痛そう…。でもそれ以上に自分の口から出る言葉に全身を引き裂かれるみたいな辛そうな顔でここを歌っていて、思い出すだけで胸が苦しい。

 

彼らは私を憐れんだ 私を兄弟と呼んだが 
より美味しいパンは 彼らの息子と娘に渡したんだ
必死に善良なふり 必死に高潔なふり
彼らの関心を誘おうとしても
私の手には一切れのパンだけが与えられる
食べ残しの憐れみ


メッセラがユダヤに居場所を見つけることができなかったことについて説明されているのは、作中を通してこの部分だけです。あまりに説明が少なく、ハー家の人々のおこないを疑問視することも、メッセラに同情することもできないレベルなのですが…。メッセラ脳をこじらせた私の想像でお話しすると、これは実際にメッセラがミリアムたちに虐待まがいのことをされたとか、そういうことではないと思っています。メッセラの言う"パン"とは愛情の比喩だと私は理解しています。メッセラがハー家を恨んでいたわけではないことは、ユダと再会した時の態度や、ミリアムとティルザの話が出た時の表情からもうかがえます。どれだけ努力しても、ユダヤ人のコミュニティの中で他の人と同等に扱われることはなく、彼らからの愛を欲していたからこそ、そのことが辛かったのではないかと。

 

臆病者だったメッセラが、ユダヤでどういう少年時代を過ごしたのか想像するだけでだいぶしんどい…。もうそれだけでメッセラ無理…好き…って自家発電できてしまう不憫萌え…。本当にベンハー観てる間、何度心の中でワン・ヨンボム演出様と握手したかわかりません。ワン・ヨンボム演出様とは「不憫な役やるチェ・ウヒョクが好き」というのが完全に合致してます。こういう役やるウヒョクくんが観たかったんです。メッセラは悪役として理想中の理想…。本当にありがとうございます。これからもついてゆきます。プレビュー中に会場でご本人を見かけたとき、拝んだわ…。

 

話を戻しまして、少年時代の回想が語られたあと、舞台上にはアンサンブルが現れ、時はメッセラとピラトが出会った"セジャヌス執政官の反乱"に戻ります。ふたたびメッセラが現れると、今度はローマ軍の甲冑を身に着けた姿。ここの演出も最高だよね!!!とにかく《私はメッセラ》の演出は何もかもが完璧!!!演出様!!!ローマ軍に入ったばかりの少年兵は、腰を抜かして怯えています。そこへ将軍ピラトが登場。

 

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ピラト:おい!お前故郷はどこだ?
メッセラ:エルサレムです。
ピラト:ローマ人がユダヤで生まれたのか?
メッセラ:父がエルサレムに派兵されたんです。
ピラト:故郷に行きたいか?
メッセラ:はい!


故郷に行きたいなら一人でも多く殺せというピラトの言葉に奮い立たされ、剣を握り直すメッセラ。「殺してこそ もっと踏みにじってこそ 手に入れられる」と言い聞かせるように、寝返ったローマ軍を次々と倒していくメッセラ。切った先から赤く染まっていく舞台。

 

メッセラがどういう経緯でローマ軍に入ったのかは説明されていませんが、臆病だった少年が「故郷に戻るために殺す」というのは、つまりは強くなってエルサレムに戻りたかったということで…。もしかしたらエルサレムで苛められた経験があったのかもしれませんが、きっと剣術でユダにかなわなかったことも理由の一つなのではないかと思います。同情ではなく本当に愛されること、認められることを渇望し、嫉妬でいっぱいのメッセラにとって、清廉で真っ直ぐなユダという少年はあまりに眩しい存在だったんじゃないかと思います。ひどく貧しい下級兵士の息子で、家族もおらず異邦人として暮らすメッセラ。生まれながらに裕福で、家族に愛されていて、強くて人望もあるユダ。強く憧れると同時に、どこかで憎んだんじゃないかなと。ユダという存在が自分の惨めさを浮き彫りにするわけですから。だから互角になるために、強くなることを望んだんじゃないかと思います。

 

ローマ軍を薙ぎ倒して行くメッセラ。兵士を倒すのと同時に、ローマ軍の中で少しずつ上り詰めていったことが表現されています。この曲のシーンを"反乱を起こした執政官との闘い"に設定したのは本当に上手いです。最後にメッセラは執政官と思わしき人物を倒し、部下の手によってその人物が身につけていた深紅のマントがメッセラにかけられます。

 

私のマントの下に 赤黒い風が吹きすさぶ
敗北はない ひたすらに勝利のトランペットの音

 

ウヒョクメッセラは、勝利に酔うでもなく、踏みにじってきたものの重みを味わうかのような表情でここを歌っていました。"手に入れる"ために殺していたはずが、殺していくうちに自分が何を手に入れたかったのかがわからなくなってしまったんじゃないかという哀しさの見える表情でした。メッセラの身につけるマントは彼が殺してきた人の血の赤さ。これだけ殺してきたからには、もう絶対に戻ることはできないっていう覚悟の叫びみたいなものを感じました。

 

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こんな思いで勝ち取ったものは絶対に手放すことはできないんだろうと、一幕序盤のシーンを思い返します。ユダとの再会を喜んでる時、ユダの懇願に対して「約束する」とメッセラが言う時、周りの部下達は凄い顔で見てるんですよね。指揮官がユダヤの味方をするのか?という。指揮官という立場に執着し、がんじがらめになった結果なんだろうなと…。それに、ローマ軍の鎧を着たユダに剣を突きつけられたことがメッセラにとってどれほどの屈辱だったかも。きっと何よりもメッセラの誇りを傷つけることだったのだろうと思います。

 

【動画】私はメッセラ/パク・ミンソン(ショーケースより)

 

 

■ M13. 게네사렛/ゲネサレト(シモニデス、ティト、アンサンブル)

ユダヤ大司教の前で預言書を読み上げ、ナザレの男が救世主であると主張するシモニデス。しかし、ジーザスの見窄らしい身なりを理由に司教らは取り合いません。ティトはジーザスが救世主であるかどうかに関わらず、ローマに立ち向かうべきだと訴えるが、「律法を守る者だけが救われればいい、余計な争いを起こすな」と一蹴されてしまいます。

 

 

■ M14. 기도/祈り(ミリアム)

ハンセン病患者の丘にいるミリアムとティルザのところにエスターがやってきます。ナザレの男が病人を癒したところを見たというエスター。奇跡を起こす男に会いにいこうと2人に持ちかけます。ミリアムは絶望的な状況の中で見出した一筋の光に感謝し、もう一度誰かに抱きしめられたいと祈りを捧げます。


■ M15. 죽음의 질주/死の疾走(ユダ、メッセラ)

戦車競技の日。競技場に並び、選手紹介を受けるユダとメッセラたち。「私たちになぜこんなことをしたんだ?」と問うユダに、メッセラは「君がここにいる理由と似ている」と答えます。執着したユダとの勝負を前に、悦びでいっぱいの表情を見せるメッセラ。ローマ代表として自分の名前を呼ばれ、ウヒョクメッセラは大きく息をついて満足げな顔をしていました。

 

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これが我らの最後の疾走だ 

後戻りのできない最後の勝負だ 

一人はユダヤ人 一人はローマ人 

共に生きることはできない過酷な運命よ

 

わが友よ 何のために
こんなにも変わらなければならなかった なぜ
明るく笑っていた君の顔が 
醜悪な罪に堕ちて 歪み 泣いている


なぜメッセラが心で泣いてるとわかるんだ、ユダよ…。そんなふうに未だ相手を思える余裕があるのなら、もうちょい話し合いをしなよ自分ら…。

 

競技シーンは「戦火の馬」のような戦車のセットとプロジェクションが組み合わされていてド迫力です。わぁ湯水のように金を使っておる…という感じです。車輪から火花が散るのですが、この仕掛けや馬の動きはなんと演者がコントロールしているのだとか。最後にメッセラの戦車がバランスを崩し、叫喚とともにメッセラは消えていきます。

 

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【動画】死の疾走/カイ、ミン・ウヒョク(ショーケースより)

 

 

■ M16. 나 메셀라 Rep2/私はメッセラ Rep.2(メッセラ)

ミリアムとティルザの居場所を聞き出すべく、メッセラを探すユダ。「何も見えない!誰がローマの英雄メッセラの目を裂いたのだ!」という怒号とともに担架に運ばれてきたメッセラ。両目を負傷し、盲目になっています。突然「止まれ!我が友が目の前にいる。私にはわかっている。」と言い、担架をおろさせます。「止まれ!止まれ!」って力の限り暴れて、ほとんど落ちるみたいにして担架から降りるのも、ユダがいるのと逆方向に向かって啖呵を切るのも、無様で哀しい。

 

「家族はどこにいる?」と聞かれ「ハンセン病患者の丘だ」と答え、戦おうと短剣を振り回しますが、その剣がユダに届くことはありません。狂ったように笑ったあと、自らの腹に突き刺し「おめでとう。お前の勝ちだ。」と言い残し果てるメッセラ。

 

ウンテユダは倒れようとしたメッセラに反射的に腕を差し出していて、ウヒョクメッセラがその片腕に絡み付くように掴んだまま絶命したのたまらなかったです。執着心の塊だった。メッセラは、59年版映画の哀れで誇り高い死に様がものすごく良かったので、それを踏襲したシーンになっていて素晴らしかったです。このメッセラが観たかった…!ありがとう…悪役として5000兆点…!脚を負傷した映画版とは違い目を失うというのも、憎しみに目が眩んだメッセラの内面を象徴していてすごくよいです。

正直59年版メッセラは背景がまったく描かれてないことから、普通に観ただけではその憎悪の裏に何があるのかわかりにくいです。(まぁそんなのどうでもよくなるくらいボイドのメッセラは魅力的なんですけど)それに対しミュージカル版は根源にユダヤ民族への恨みがあることを示唆し、もしユダがずっと憎しみに心を捕われたままだったなら有り得たかもしれない姿、鏡のような存在として位置づけているのではないかと思いました。ストーリー上重要ではない曲を減らしてもっと出番を…という気持ちがないといえば嘘なんですが、あくまでユダが主人公だということを考えると作品的にはちょうどいいバランスなんだろうと思います。民族を代表する象徴的な存在であるユダに対して、メッセラは私怨・私欲で動いているキャラクターなので、メッセラのストーリーラインの比重が増えるとテーマがぶれるような気もします。いや、ほんともっと観たいけどな…。ミュージカル『メッセラ』で良いんだけどな…。レミゼでいうジャベール的ポジションと考えると。私はレミゼでも勿論ジャベール派ですし、ポーでもグリスウォルド派ですし、要するにそういうの好みなんですよね。そしてそんな役を推し俳優さんが演じてくださるという奇跡。終わりのないフランケンロスを抱える私に、(チェ)ウヒョクメッセラという名の萌えを与えてくださったのは、やはりワン・ヨンボム神であった…。

 

 

ハンセン病患者の丘

ミリアムとティルザを探しにハンセン病患者の丘へやってきたユダは、そこでエスターに遭います。エスターが2人の居場所を知っていながら黙っていたことを責めるユダ。エスターは自身を盾にして、2人に会わせまいとします。

 

あの方々の心をこれ以上傷つけることはできない
自分自身を見てください
旦那様の顔に怒りに満ちたローマ人の顔が見えます


エスターの訴えに圧倒されたユダは井戸の陰に隠れ、ミリアムとティルザがイエスに会うために出発する姿を見守ります。

 

 

■ M17. 희망은 사라져/希望は消えて(アンサンブル)

ユダが仲間のもとへ戻ると、反ローマ派は瓦解し皆が去って行くところでした。青年たちはイエスが十字架にかけられることになり、もはや希望は消えたと嘆いてイエスを「詐欺師」と呼びます。止めようとしたユダに「金持ちに生まれたあなたにはわからない」と吐き捨てる青年たち。「こんなことのためにあの苦痛の中で生き残ったわけじゃない」と言い、ユダはゴルゴダの丘へと向かいます。

 

 

■ M18. 골고다/ゴルゴダ(ユダ)

十字架を背負い、ゴルゴダの丘へと向かうイエスと野次を飛ばすユダヤの人々。この作品のすべてはここからラストにかけての流れにあるんだろうなと思うくらい、シンプルで完璧なシーンです。この作品では回転舞台、いわゆる盆が用意されていますが、使用されるのは〈死の疾走〉と〈ゴルゴダ〉のみ。叶えたい演出のためには金に糸目つけねぇっていう気概が伝わってきますね。舞台上に人はたくさんいるのですが、その中でイエスに訴えかけるユダのみにスポットがあたっていて、あくまでもユダの独白が表現されているのがとても良いと思いました。

なぜ奴らにこんな仕打ちを許すのかと訴えるユダにイエスは耳打ちします。この曲に関しては削る部分がないので歌詞すべて載せておきます。

 

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十字架を背負い 嘲弄を浴びながら
どうやってこの世を救うことができようか どうやって

ここにあなたの軍隊がある
言ってください あなたが王だと
我が軍よ 刀を取るのだ 私が民族を救う
ユダヤの王が命令するのです
エルサレムよ 強靭になれ
どうか 一言で充分です
あなたを求める我々を救ってください

私の胸に燃えるこの怒りに
私の目に流れるこの涙に
何の理由もなかったわけではないだろう
あなたが言ってください
私が一体なぜこんな運命を持って生まれたのか
これは神が望んだ人生だった
私は彼らを死ぬほど殺してしまいたいのに なぜ

あの方 私の喉が渇いた時に水をくださった方
その方は私にこうおっしゃった
彼らを許しなさい
彼らは自分たちが何をしているのか全く分かっていない
そんな彼らを許しなさい

それでは私は一体何のためここにいる
私の胸に突き刺さった刀は何だったのか

 

【動画】ゴルゴダ/パク・ウンテ(ショーケースより)

釘を打ち付ける音が響き、ゴルゴダの丘に十字架が立ちます。イエスの言葉を理解することができず、見捨てられたという哀しみの中で咽び泣くユダ。そこへミリアムとティルザが現れます。2人の病気は跡形もなく治っており、ユダは「幻だ」と信じようとしません。母の手がユダに触れた時、ユダはようやくイエスが起こした奇跡であることを悟り、2人を抱きしめてイエスへの感謝を述べます。

 

 

■ M19. 운명 Reprise/運命 リプライズ(ユダ)

その後、暴君ネロの圧政に立ち上がったユダは、全財産を船に載せてローマへ向かい、カタコンベの建設をおこなったことがナレーションによって説明されます。

 

今 教えてください 私が生きてきた理由 
すべてを失っても 手足は縛られたまま 
悲鳴を上げたあの日の痛みが あなたの意志なのですか 
これが運命 生きている理由 

墓から蘇り 神よ 今私に応えまえ

 

復讐心に動かされていたユダが、力ではなく祈りによって民族を守るリーダーになるというラスト。このあたりは映画にはなく、原作から引用されている部分です。ユダはゴルゴダの丘ですべてを悟ったわけではなく、生涯「自分の生きる理由は何なのか」とイエスに問いかけ続けたのだろうと思わせるラストが良いです。裕福なユダヤ人として生まれながら一度はローマ人にもなるという数奇な運命は神に与えられたものであり、そんなユダだから祈りによって人々を救うことを貫いたのでしょう。

ただ結末としては、ユダが"敵を赦す"ことができたのかどうかが明らかにされないのは物足りない部分だと思います。それは59年版映画を観ていても感じていたところ。これを描いたのは原作・映画・ミュージカルの中では2016年版映画だけですね。悪役の美学として、メッセラの死は必要な展開だったと思いますが、何らかの形でメッセラが赦されたことがわかる描写があれば…と感じました。メッセラが救世主の存在を信じる人たちを嗤っていたのは自分自身を救ったものが剣の力だけだったからでしょうし、それだけを信じたまま死んでしまったことが哀しい。メッセラに何らかの形で救いがもたらされる平行世界をくれ…。

 

とはいえ、フランケンで描かれたメッセージと同様に"憎しみの根底には別の憎しみがある"ということが示されており、ユダヤ人とローマ人という二つの属性を持ったユダが民族の救い主になることを描いたワン演出はやはり信頼できる人だなと思いました。(キャラ萌え的にもね!)誰もが楽しめる豪華なショーとして魅せながら、対立の哀しみ・平和への祈りという普遍的なメッセージを伝える『ベン・ハー』という題材を選んだことは、意義あることだと思います。ユ・ジュンサンさんも開幕前のインタビューで「現在の韓国の状況と重なる部分がある」とおっしゃっていましたが、それを意識して書かれた脚本なのではないかと思います。まだ台詞が把握できてないところも多いので、マッコンまで観劇を重ねて理解を深めていきたいなと思っております。


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カーテンコールはエスター、メッセラ、ユダの歌あり構成!希望のあるラストなので、素直にカーテンコールで盛上がれるのサイコー!メッセラちゃん生き返って「叫べ、我が名を!」言うてくれるのサイコー!!!かわいい!!好き!!って劇場出られる幸せ。

 

【動画】9月7日カーテンコール(ユ・ジュンサン、ミン・ウヒョク、アン・シハ)

【動画】9月8日カーテンコール(カイ、パク・ミンソン、アイビー)

【動画】9月9日カーテンコール(パク・ウンテ、チェ・ウヒョク、アン・シハ)

 

最後にカーテンコールウィーク中に観劇した時に私のカメラが捉えたウヒョクメッセラを載せておきますね…

 

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まぁかわいい♡